#58


本日は朝からずっと、下唇がぴくぴくと痙攣していた。
何か悪いものでも食べたかしらと考えるけれど、思いつかない。

思いつかないと言う事は、別に悪いものを食べたわけじゃない。
一体なんだろうなと首をひねりつつ、トーストにメイプルシロップをかけて
温かい紅茶にミルクとシナモンを入れた朝食を食べる。

メイプルシロップがついた唇を舌でなぞる度
下唇はぴくぴくと痙攣する。

気にしないようにと言い聞かせていると
何だか余計に気になって、メイクをした後も
何度も唇へ手をやるものだから、顔の一部分だけ
ファンデやルージュが剥げて、それも気になる。

日傘をさしての通勤途中も
職場に到着して、汗を拭っている時も
一息ついての業務開始後も

下唇は痙攣しつづけ、なんだか本日は上手くしゃべる事も
笑う事もできない。

こんな日は、早めに仕事を切り上げて帰った方がきっと良い。
そう思っても、繁忙期に入った職場は慌ただしく
まぁどうせ、ちっぽけな中年女の下唇が痙攣しているなぞ
誰も気にも止めないだろうと、開き直って業務に没頭する。

くたくたに疲れて、それでもこの季節は
帰宅時間になっても陽が落ちないのが嬉しい。

かすかな日差しが残るのに、東の空からハッキリと雷鳴が聞こえて
まだ梅雨はあけないんだなぁと空を見上げつつ、渇いた喉を癒しに
隣のビルにある、シアトル系のカフェに飛び込んだ。

その間中、唇の痙攣は続き其の頃にはもう
なんだか唇が痺れたようになってしまい
感覚が無くなって来ていた。

感覚のなくなった唇を動かすのは、なかなか大変な作業で
カフェのメニューを注文するのに苦労した。

ナッツのパウンドケーキを頬張りながら
アイスカフェモカを痺れた唇でゆっくり飲むと
ほろ苦くも甘い液体が喉を落ちて、気分がゆったりくつろいでくる

(それでも、下唇はずっと痙攣をしているんだけれど)

ぴくぴくと震え続ける下唇を押さえて、
一体何が原因なんだろうなぁとじっと考えると

空が雷でぴかりと光って
とたんに嗚呼そうかと
頭の記憶もぴかりと光る。

私は嘘をついたのだ
とても愛している人に嘘をついた

私は嘘をついたのだ
愛していない人にも嘘をついた。

いかにも健気な、いかにも無邪気な、いかにも本気な振りをして
いとも容易く嘘をついた。

愛している人に
愛していない人に

ニッコリ笑って嘘をついた。

ぴくぴくぴくと今度は唇全体が痙攣を始める。

私はもう嘘しか言えない人間になってしまったのだ。


雷鳴が痙攣する唇を照らして、ごおんと鳴った。





テーマ : ショートショート - ジャンル : 小説・文学

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