テツはいつも苛められてた。
もうずっとずっと苛められていた。
テツは普段は、家の地下室に押し込められている。
食事は鍋にご飯とその日の残り物を煮込んだ物。
昔は犬の飯はこんなんだったよなぁと、父さんは笑う。
テツはトイレに行かせてもらえない。
だから、オムツをさせられている。
それだってろくろく替えてもらえないから
足の太腿あたりまで、皮膚がかぶれて爛れている。
クサイ、汚いと母さんは怒る。
だってそうしたのは母さん達なのに
母さんは汚いと怒る。
テツは食べ物を与えられて、薄暗くてじめじめしているけれど
寝場所も与えられて、でもその状態ははたして、生きてるとか
生活しているのかと言われれば違う。
殺す事はできないから、仕方ないから、ただ生かしている。
テツはそんな状態だった。
父さんも母さんもテツが疎ましい。
出来るだけ見ないように考えないようにしてくらしている。
僕はテツの事は嫌いじゃない。
ただ、不思議で仕方ないだけだ
だってテツは、父さんの父親であるはずで
ってことは、母さんにとっても父親であるはずで
だのに、地下室に閉じ込めて、死なないように最低限の事だけして
そんな風にしてしまえるものなんだ。
だとしたら、僕も父さんや母さんが歳取ったら
テツのように扱うべきなんだろうか?
そして、其のとき僕は、父さんと母さんを
今の二人がテツに対して思っているように、疎ましく思うのだろうか?
なんだかそんな事を考えると、僕の心は冷え冷えと寂しくなる。
お前は気持ちが弱すぎると、以前父さんに言われた事があるけれど、
僕の心が弱いから、そんな事が気になって、
考え出すと、とまらなくなってしまうんだろうか。
父さんと母さんが居ないとき、僕はこっそり地下室に行って
テツにお菓子をあげたりする。
テツは甘い物が大好きで、僕がお菓子をあげると
大事そうにゆっくり丁寧に食べる。
かっちゃん、ありがと。
かっちゃん、美味しかった。
テツはお菓子を僕があげると、もらったときと食べ終わったときに
小さな声でしっかりとそう言う。
母さんは、テツは惚けてると憎々し気に言うけど、
僕はテツは惚けてないと思う。
テツがしゃべると、母さんがイライラして怒るから
何も言わないだけなんだと思う。
そんなある日。
バスルームで、母さんの悲鳴があがった。
僕が驚いて、バスルームを覗きに行くと
裸のテツが湯船の前で小さくちぢまっていた。
母さんは、目をつりあげて、何でアンタがこんなとこに居るのよっ!
汚いじゃないっ!風呂場が汚れるのよっ!と大声で怒鳴り散らした。
テツは小さくちぢまったままで、ごめんなさいと呟いていた。
でも、身体が痒くてお風呂に入りたかったの。ごめんなさい。
テツはお風呂に滅多に入れてもらえない。
一週間にいっぺんくらい、地下室から追い立てられるようにして
バスルームへつれていかれ、水道につないだホースの水で
ばしゃばしゃ洗い流されて終わりだ。
無理矢理つけさせられている紙オムツとか、
ジトジトじめじめの中で暮らす為の皮膚のムレとか
それが、テツはたまらなかったんだろう。
だいいち、汚いと怒るなら
もっと毎日お風呂に入れてあげれば
テツは汚くないのだ。
なのに。
母さんは、ぎりぎりと目を吊り上げたまま、
無言で、脱衣所のカゴにたてかけてあった、布団を叩く
蠅たたきみたいな形の棒をつかむと、やにわにテツに振り下ろした。
何度も何度もテツを叩いて、
テツがごめんなさいごめんなさい、もう止めてと泣いても
しばらく叩き続けた。
僕は、それをずっと見ていた。
恐ろしくて、母さんを止める事なんて出来なかった。
いつもは、きちんと化粧をして、綺麗な服をきて
誰にも愛想のいい母さんが、目をつりあげて、口をゆがめて
髪をふりみだして、謝るテツを叩きのめしている。
僕は、身体が冷たくなった。
そしてどんどん悲しくなった。
歳をとっておじいさんやおばあさんになることは、
こうして苛められる事なんだろうか。
何もゆるされずに、居なかった事にして
死なない程度に生かされる事なんだろうか。
悲しくてかなしくて僕は泣いた。
次の日は、父さんと母さんは出掛けていて留守だった。
夕方まで戻らない。
僕は、ずっと考えていた事を、この日実行する事に決めた。
地下室に降りて行き、壁にかかっていた鍵を使って扉を開ける。
(バスルーム事件以来、テツの部屋は、
父さんが鍵をかけるようになってしまったのだ。)
ドアをあけて、テツ、僕だよと声をかけると、
部屋の隅から立ち上がる小さなシルエットが
かっちゃん来たの?と僕を呼んだ。
温い水に近いお風呂だったけど、テツは幸せそうに湯船に浸かっていた。
ゆっくり入らせていてあげたかったけど、時間がない。
次の資源ゴミの日にだそうと、母さんがまとめていた
僕の着れなくなった服が、テツにはちょうどぴったりだったから
それがちょっとおかしかった。
リュックの中に、テツが好きなミルククッキーと
チョコレートと、ロールパンを一袋入れた。
それをテツに背負わせて、帽子をかぶせると、テツは其のときはじめて
ちょっと不安そうに、かっちゃん何処か行くの?と聞いた。
テツはさ、ずっと前から父さんと母さんに言ってただろ?
お願いだから、捨ててくださいって言ってただろ?
僕がそういうと、テツは小さい黒目だけの瞳で僕を見上げて
捨ててくれるの?と言ったので、僕は大きく頷いた。
バスを乗り継いで、私鉄電車を乗り継いで終点まで行くと、そこに白髪山がある。
山のてっぺんが、いつも白い霧のようなもので白髪のようにみえるから
しろかみやま。僕らの町ではその山は“姥捨て山”として有名だ。
僕は、そこにテツを捨てに行く。
だって、それをテツもずっと願っているし、
僕だって、もうテツを苛められるところをみて
辛い気持ちになりたくない。
その駅名も白髪山の駅の改札を抜けて、
目の前にあった小さな売店で、僕はウーロン茶、テツはイチゴミルクを飲んだ。
目の前にそびえる白髪山は、想像していたよりもずっと大きくて立派だった。
白髪山に通じる道は、まわり一面緑の田んぼで、雨蛙が鳴き、すごくのんびりしていた。
あ、かっちゃん蜻蛉。
いよいよ山の登山道に入るところで、テツが楽しそうにそう言って
空を指差した。
見上げると、眩しい青空の中に、銀色の羽根だけがキラリと光っていた。
うん、蜻蛉だ。
かっこいいねぇ
うん。
テツは、しばらく空を眺めていたが、僕に向き直ると
かっちゃん、此処までで良いよと言って笑った。
僕は、山の中まで一緒に入ってテツが暮らしやすい場所を
一緒に探そうと思っていたので、驚いて、心配になった。
だって、テツ大丈夫なのか?
うん、大丈夫。
テツはしっかりと頷いて、笑うと
かっちゃん、ありがとうね。本当にいままでありがとうね。
そういって僕にお辞儀をして、信じられないことに
元気に山道をかけ昇って行った。
僕は、寂しいようなほっとしたような、なんだか判らない複雑な気分で、
山に向かってテツ、と何度か呼んだ。
そうすると、かっちゃんありがと、とテツの元気な声がこだまして
それが何故だか泣けて、僕はそのまま駅まで駈け戻った。
僕がテツを捨てて、テツが居なくなっても
案の定、父さんと母さんは騒ぎもしなかった。
せいせいしたような、何か物足りないような
不安そうな顔をして、そわそわ落ち着きはなくなったけど。
僕も何も言わない。
二人が騒がなければ、別に言う必要も無い。
そうして、表面上は実に穏やかに時間はすぎて、
気がつけば、暑い日差しは衰えて、涼しい風がふく季節になっていた。
日曜日の午後。穏やかな西日が差し込むリビングで
父さんは、リビングのテーブルでパソコンを広げ、
母さんは、アルバム写真の整理をしていた。
僕はソファに寝そべってDSをプレイしていたとき
ふいに、母さんが、おじいちゃんどうしているかしら?と呟いたのだ。
僕が知らない振りをして、ゲームを続けている傍で
母さんはなおも、溜息まじりにどこにいっちゃったのかしら・・・ねぇ
さも、悲しいといったふうに首をふりつつそう言った。
苛めていたくせに。
汚いと嫌っていたくせに
テツが泣いて頼んでも叩くのをやめなかったくせに。
僕は、かぁっと目の前が赤くなってしまった。
腹が立って腹が立って、どうしようもなくなってしまった。
だから、テツは僕が捨てたよ。と言って立ち上がった。
僕がテツを捨てたと言うと、母さんは驚いて僕を見上げた
父さんも口を半開きにして僕を見つめていた。
だって、あのままじゃテツは父さんと母さんに苛められて
生きてるか死んでるか、解らないまま
ずっと暮らさなきゃいけなかったじゃないか!
犬のご飯食させられて、叩かれてどなられて!
テツは言ってたじゃないか!!
捨ててください、お願い捨ててって言ってたじゃないか!
其の方がテツが楽になるなら其の方がいいじゃないか!
僕は嫌だったから
テツが苛められるのも泣いているのも嫌だったから
「だから、テツを捨てたんだよ。」
僕は、怒りに任せて叩き付けるように二人に話終えると
何故か、最後に見たテツの笑顔が思い出されて
涙があふれて止まらなくなってしまった。
其の涙を、父さんと母さんには見せてやりたくなくて
僕は、大股で庭に面した窓を開けて、サンダルをつっかけ庭に降りた。
ーーかっちゃん。
其の時、どこからかテツの元気な声が僕を呼んだ。
慌てて涙をぬぐい、テツ?と僕も呼びかける。
戻って来ちゃったのか、テツ?
馬鹿だな、何してるんだよテツ!
この家に帰って来たら、また苛められる。
早く戻れ!山に戻るんだよテツ!!
テツの姿を探しながら、そんな事を呟く僕の耳に
ぎちぎちぎち・・・・不思議な音が聴こえて
はっと顔をあげると、ざざざっと何か大きな銀色の波が
僕に襲いかかって来て、思わず目をつぶる。
・・・・?
どのくらい時間が過ぎたのか、
恐るおそる目を開けて、僕は息をのんだ。
赤蜻蛉。
おびただしい数の赤蜻蛉が、庭を埋め尽くすようにして
ついついと飛んでいたのだ。
赤蜻蛉の透明な羽根に夕日が反射して茜色にキラキラ光る。
まるでそれは生きているシャボン玉のようであり
空気がキラキラ透明セロファンで覆われたようでもあり
何とも言えない、美しい光景に、僕はただ圧倒されて
その場に立ち尽くしていた。
ーーかっちゃんありがとね
茫然と立ち尽くす僕の耳に、再びテツの声が響く。
僕は思わず、テツ!と叫んで辺りを見回す。
僕のテツを呼ぶ声が、合図だったかのように
赤蜻蛉達は、一斉に茜色に染まった空へ高く舞い上がった。
テツっーーーーっ!!
僕は庭の垣根にしがみつき、茜色の空に舞い上がる赤蜻蛉に
叫び続ける。
赤蜻蛉は、茜色の空に次々と溶けて、
最後の一匹が空に消えるときに、無邪気なテツの声が聴こえた。
ーーかっちゃん、ありがとね
ーーかっちゃん、ありがとね
ーーさよなら
テツ、テツ、最後は幸せだった?
赤蜻蛉になれて幸せだった?
テツ、ごめんね
テツ、テツ、
僕は、茜色の空に向かって、いつまでもテツの名前を呼んだ。
其の色が消えて、やがて空に星が光るまでずっとずっと。
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